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松山歴史公園

大手門

 松山の歴史公園の中に往時の夢を偲ばせ、その偉容を誇っている城門は、県内唯一のもので、県指定文化財である。安永8年(1779)12月15日、三代藩主酒井忠休(ただよし)公の代に幕府の「若年寄」他要職を永年勤めた功労により、現在の群馬県桐生市の付近、勢多郡、山田郡に高五千石を加増され、二万五千石となり、松山城の築城と城門に鯱を上げることを許された。
 設計は宗藩宮田流の軍師長坂十太夫正逸の手になり、天明元年(1781)築城に着工し、七ヶ年の歳月と莫大な資金を投じて、二の丸・塁・溝・牆(しょう)壁共に完成し、大手門(多聞楼と称す)も落成し、外望毅然たる一城となった。山をくずし谷を埋め、堀を作り、民家を移しての大工事であった。
 大手門は寛政2年(1790)に落雷のために炎上したが、寛政4年(1792)酒田の本間光丘翁の寄進により再建された。

大手門絵図大手門絵図

天明2(1782)年9月20日落成大手門絵図
※その後、寛政2(1790)年落雷により焼失。2年後の寛政4年に酒田の本間家の寄進により再建されたのが、現在の大手門。

松山藩の歴史

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、元和8年(1622)、最上氏の改易によりその領地は三分割され、庄内14万石の領主に徳川四天王のひとつ酒井家から酒井忠次(酒井家の祖)の孫酒井忠勝が信州松代より転封され、鶴岡を居城に庄内藩が誕生。忠勝は、当時九歳の三男忠恒に最上川を眼下にし北東の防備地として中山(後の松山)八千石と内陸の左沢地方一万二千石計二万石を分封。忠恒は寛文2年(1662)初めて中山の地へ入り、宗藩の鶴岡、酒田の亀ヶ崎にならい縁起をかついで松山と改名。明治の廃藩置県に至るまで八代に渡る歴代藩主によって209年間藩政が布かれた。

松嶺町割絵図松嶺町割絵図

松嶺町割絵図

わずか17戸のみの寒村に松山藩が誕生した

初代藩主忠恒が、松山藩政庁の中心地として「中山陣所」という屋敷を構えたのは、寛文2(1662)年のことで、当時、松山の地は、中山村と称され、わずか17戸のみの寒村であった。松山城下の整備は、その前年より始められ、藩主屋敷を中心に家臣の住居がまとめられ、その四周には土居をめぐらせて郭内をその周辺地区と区別し、鍵型に交差する郭内の道路は、軍事上の厳しい配慮を示していた。こうして誕生した松山城下町であったが、何分にも支藩であったため、当時はまだ城を構えることは幕府から認められていなかった。築城が許されるのは三代藩主忠休の時代になってからのことである。

松山城の輪廓

田中静居「松山城遠望図」

田中静居「松山城遠望図」

忠休は、寛延2(1749)年から26年間幕府要職である奏者番・寺社奉公・若年寄を勤めた功により、安永8(1779)年、上州桐生(現在:群馬県桐生市)に五千石の加増と松山城の築城が認められ大手門には「鯱」を上げることが許された。楼上に輝く一対のしゃちほこは、三河以来の武門の誉れとして、とくに幕府より許された由緒あるものであった。築城は天明元(1781)年に着工し、本丸・二の丸の総面積38,708坪と広大な計画で、山を崩し谷を埋め、堀を作り民家を移しての大工事で、二の丸の塹堀と土塁が、北西南と東の一部で完成し、十三間堀は東方の一部のみで、心光寺より十三間堀に至る間が出来なかった。このように新城郭は未完成ながらも出来たことで、旧郭内とはその区域を異にし、古い土塁は自ら廃毀された。よって、旧郭の土塁に設置された大手門は廃され、新たに新城郭に大手門を設置することとなった。当初大手門は「三の丸の櫓門(矢倉門)」として天明2年に完成、二の丸も九分どおり完成したが、本丸は藩の財政難や藩主忠休の逝去・連年の凶作・藩財政の困窮・農村の困苦などで着工せず、未完成で天明7年に城築を終えた。

田中静居「松山城遠望図」

田中静居「松山城遠望図」

松山城下町 散策マップ ダウンロードはこちら(PDF:2.2MB)


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